名前:田中紫織(Shiori Tanaka)
在籍感想(本人の言葉をそのまま載せています):
時松研究室を選んだ理由が、二つあります。一つ目が理系の大学でありながら単一分野の技術研究に捕らわれない視野の広さ、二つ目がグローバル教育を始めとする卒業後の社会での活躍を見据えた教育方針です。実際に入学してみて、期待以上のものを得ることができ、時松先生には深く感謝しております。
特に後者に関して、他の研究室では決して得られなかったと感じることが多々あります。学部生のときに短期留学に行って以来、再び留学に行きたいという思いを強く持っていました。しかしながらパッケージ化された語学留学や交換留学では大きな成長は見込めないと感じ、フィールドワーク研究やインターンシップを通じた海外渡航を希望していました。時松先生には、全7か国でのフィールドワーク調査の機会を創出して頂き、また金銭的にも援助して頂き、大変感謝しております。行動力やマネジメント力、語学力(留学後にTOEIC900点を突破)など、社会に出てからも利用できる様々なスキルが身につきました。
東工大に限らず、他の研究室では学生を自分の実績作りのための労働者として扱う大学教授も少なくないと聞きます(私のような外部生の場合は特に)。そのような中で、時松先生のように、学生一人一人と向き合い、どのような価値を大学から学生に提供できるかという視点を持っていらっしゃることは素晴らしいことだと思います。時松研究室に入って本当によかったです。
ただ、決して楽な2年間ではなかったです。時松研の受験を検討される方は、下記の点を留意する必要があります。まず、時松研究室は、その研究対象領域の広さゆえ、基礎知識は独学が必須です。自分の研究テーマについて先輩や先生に一から教えてもらえることは期待しない方が良いです。また、在学中はかなり忙しくなることを覚悟してください。二年間で研究、留学(とその準備)、授業、就職活動、研究室の事務作業の全てをこなす必要がありますが、特に修士から入学する場合、研究のみに集中することは難しいです。院生=研究に没頭、というイメージで入ると、かなりギャップがあります。時松研究室には秘書さんがいないため(18年3月現在)、様々な事務処理や留学生のサポートを日本人学生が担当しますが、こういったことに意外と手間と時間がかかります。
また、アルバイトをする時間は努力すれば作れますが、推奨はされません。留学にかかる費用はJASSO奨学金と研究室から援助頂きましたが、日常生活で必要なお金や就職活動中の交通費などが、常にストレスの元でした。入学時に奨学金に申し込むか、両親にまとまったお金を借りておけばよかったと思います。
しかし振り返ってみて、成長できる環境であることは間違いないです。興味のある方は研究室を訪問し、先生や先輩とじっくりお話しして、自分にあうかどうかを見極めてください。
教員からのコメント:
田中さんを初めておめにかかったのは、3年程前の4月最初の(旧環境理工の)専攻説明会。私共3研究室の説明会に何人か来られた訪問学生さんの1人で、持続性だとか幸福度に関心を持っているとのことに関連した質問を頂いた時でした。その後、積極的にコンタクトを頂き、出願前までに3回ほど研究室にも足を運び、自分の希望や考えていることをコミュニケーションしてくれました。ご自身の考えを私に伝えたいのに、緊張のあまり硬くなって十分に伝えられない様子に、気楽に喋って、と何度もリラックスさせたことを思い出します。
入学後、田中さんは私のオフィスの前を通る際に、大変気持ちの良い挨拶をいつもされました。私は、挨拶を受ける立場になって初めて、気持ちの良い挨拶が大事であることを、田中さんに教えてもらいました。また打合せをしているうちに、納得行くまで自分の頭でしっかり考える良い習慣を持っており、考えていることを(時折頭を混乱させながらも)的確に伝えようとする、聡明さを感じました。
最初の派遣先は「海士町(隠岐の島)」でした。機会があればどこにでも行ってみたい、という積極的な姿勢に、スポンジのような吸収力を感じました。この派遣は、奇しくも田中さんの誕生日プレゼントとなりました。M1の海外派遣の準備は受入先探しが本当に大変でした。「幸福度ランキングトップのデンマークにどうしても行きたい」というクライアント(田中さん)の要望を叶えるべく、あらゆる手段を尽くしました。ここまで大変な思いをしたので、どうせ行くなら、3カ国も4カ国も、滞在月数も3も5も手続きは変わらないから、行きたいだけ行って、自分の意思で決めて構わないとしたところ期待に応え、同期の高木さんと共にスイスの国際機関訪問も含めて、最大限可能な4カ国5ヶ月としてくれました。長期滞在したことで幸福度ランキングの国の実際を、より客観的に肌感で理解して無事帰国されました。
就活が落ち着いたら、次はシンガポールを中心としたアジア派遣でした。予算が読めない状況で、自腹覚悟で短期間でもブータンも含めることに本人が決めました。それまで私が培ってきた人脈をフル活用してもらい、念願のインターンをも体験(@NUS/ESI)する3カ国4ヶ月となりました。抜群の行動力がブータンでも発揮され、たった10日間の滞在で200近い調査サンプルを収集するというギネスブック並みの記録を残しました。
就活も含め、これだけの経験を積んだことで、M2の冬には田中さんは自信を付けた様子で、落ち着きと安定感が現れて来ました。M1夏の派遣前、とある教員から話しを聞いて大変不安がっていた田中さんとは別人のように成長されました。田中さんの貴重な経験をシェアしてもらうべく、学内外の国際ワークショップや学会でも積極的にプレゼンをしてくれました。芝浦工大の栗島先生による館山調査に関する論文執筆指導のお陰で、M2最後には自ら3本の査読付き論文として、この偉大な調査をとりまとめ、投稿しました。
彼女に限りませんが、私は「これは田中プロジェクト。プロジェクトリーダーは田中さん。私は社会的責任を取る責任者。最終決定はご自身の意思で決めてくれて構わない」と常に言い聞かせました。「これやっちゃだめ」は一度だけありましたが「君これやり賜え」は一度もありませんでした。成長意欲満々の田中さんは、私が機会を口にすると、意欲的積極的に何でも挑戦し、期待に応えて身体を壊さないかと心配するぐらい頑張る、大変育て甲斐のある学生さんでした。私でなければ教えてあげられないことは、思いつく限りお伝え差し上げたと思います。
大学院探し段階の「大きな問題意識」から比べると、学術研究として成立させるために、対象は限定的にならざるを得ない面もありましたが、海外滞在・インターン経験、留学生環境、人と人とのつながり、幸福度、社会システムなど、当初念頭にあったものは全て満足させてあげられたと思います。あれから3年、田中さんと日々打合せをして過ごした2年間を思い起こすと感慨無量です。教師冥利を味あわせてくれたことに感謝致します。
高木寛人 (TAKAKI Hiroto):
学部時代の研究に対して自分の興味の持ち方に限界を感じていたので、学んだことを生かせる新たな分野はないものかと大学院の研究室を探していました。研究室訪問でお会いした際には熱心に研究内容を話してくださったので、学生のサポートへの熱意を感じ、時松研究室を選びました。
時松研究室で過ごしたの2年間超では、私は自己成長を目標に努力したことに加え、指導教授と週囲の学生たちから大きな助けをもらいました。ゆえに、日本の社会人として必要な価値観を樹立してきました。また、教科書で学べなかった沢山の知識、能力と教養を、この研究室で身に付きました。
まず、研究室の学習で、私は大量の文化や知識を蓄積する機会を得ていました、こうして仕事の実務にもある程度の準備ができました。研究室では環境エネルギー、MOT(マネジメント・オブ・テクノロジー)、理系のための経済学や金融の知識など、多元化の知識を学ぶことができて、全く退屈ではありませんので、私が真剣に勉強に取り組むことができました。そして、私にとって外国語である日本語と英語の面では、授業中や各種学内外の発表などの活動を通じて、リスニング・スピーキング・リーディング、ライティング、翻訳などの能力も訓練されました。
次に、研究室で日本の先端技術や日本国内外における科学と文化に触れる機会を頂きました。指導教授から紹介頂いた各種学会で、日本製造業における悠久の発展歴史と誇り高きの技術を拝見したことだけではなく、日本技術が世界のトップに立っている理由である強い技術経営ついて研究したこともできました。また、アメリカ短期留学にあたって研究室も資金面で援助して頂きました。これらの日本国内外の交流活動で、日本及び海外における優秀な科学研究者や企業経営者と切磋琢磨したり貴重なチャンスを得ました。
最後に、最も重要なことは、研究室で皆の学習や研究に対して真面目な態度を感じたことで、自分の性格も洗練されました。こうして将来の職場にも実務に専念することができて、革新の心を持つことができると信じています。指導教授とまわりの学生皆真剣に研究に取り組んでいて、研究で得られた結果に対して色んな面から考察したり、論理的に結果に辿りつく理由を説明しています。そういう風になるために努力した経験は私にとって大きな宝物で、未来の仕事の順調に展開することに繋がっていくかもしれません。
そしてこの研究室の悪いところをいうと、忙しすぎることです。基本的に外のアルバイトに就くことができないため、必要な生活費などは貸したり、両親からもらっておいたほうがいいと思います。
2年間超の時松研究室での生活は人生の旅にとっては短いすぎるかもしれませんが、とても充実で、輝いている人生経験だと思います。中にも汗と得物に溢れて、人生の夢を追い掛け続ける道においては必要不可欠な時間でした。時松先生と研究室のみんな、ありがとうございました。
教員からのコメント:
忘れもしない着任直後の春に「時松教授」から始まる強烈な熱意を示すメールを祝さんから頂きました。実際本人にお目にかかり、中国出身でリバプールに留学、大の日本好き、今まで身に着けてきたこと、在籍期間中に身に着けて分析したいこと、将来への展望などを一枚紙にポンチ絵をお持ちになり、それを説明してくれました。そのポンチ絵は私の宝物の1つです。初めての教員経験の私はそれだけで、「この学生さんは育て甲斐がある」と直感しました。無事に試験をパスしたので指導教員をお受けすることにしました。
彼はスケジュールを常に考えてカレンダーとともに、授業、自分の研究、ご自身の夢(生損保のアクチュアリー)の勉強、就活と、限られた時間をやりくりしてきました。彼は幸いなことにロチェスター工科大への短期派遣中に分析技法を当時滞在中の産総研・松本光崇さんの指導のお蔭で身に付け、また同期の前田衛孝さんに重回帰分析なども習って、何とかこなして行きました。彼(私にも)は周囲に恵まれたラッキーボーイだと思います。研究室の研究領域における彼の貢献は、技術予測の1つの手法としての技術経済学のそれ用いて技術の普及への適用可能性を探るとともに、統計学的な手法を用いてその要因分析を試みたことにあります。
彼の場合、目の前に目標を作り、少しずつ改良を加えコツコツと成果を作るのに向いているので、学会発表をペースメーカーとして進め、結果的には1つのまとまった成果らしきものになりました。幸い、彼は持ち前の性格と喋り能力により口頭発表は教員が付き添わずとも全てこなして来ました。これは普通の修士学生にしては特筆に値すると思います。彼の研究室に対する貢献は、研究上だけでなく、日中英を卒なく使いこなし、日本人特有のコミュニケーションも習得し、飲み会の幹事も遂行するなど、幅広でした。
私はインドネシア出身のArifと申します。時松研究室の新たな修士課程学生として2015年の4月に来日しました。忘れがたいエピソードの一つは、初めてこの国に来た時に、私が私自身のチューターとして起用されたことであり、これこそが新入生を支えよりよい環境に慣れるための日本的な手法でした。 本研究室の体制などを説明すると、私は、自身の関心の高い研究に専念でき、時間を自由に使えるという一切退屈のしない環境に身を置くことができ、大変に幸運でした。
私には、東京工業大学の時松研究室と連携していけるという特恵がありました。大変に興味深いことがいくつもあり、例えば、潤沢な講義、議論への挑戦、専門開発への機会、そして時松教官による私への心配りなどがありました。これらの激励の数々は大変に私の生活に良い影響を与えておりました。
修士研究の完成は私に思考法、執筆における創造的な挑戦性、研究活動による深い満足感、そして素晴らしい2年間という日々をもたらしました。この日々の中で、私は一層自身への要求や尊敬や楽しみや気晴らしと言って物も感じるようになりました。こういった機会に接せられたことに感謝いたします。本学の講義に参加は大変にやりがいがありました。東京工業大学は特に工学分野において日本有数の高名な大学であり、世界を改める程の発見を生み出す教授陣からの講義への参加や、そして紹介される最先端の研究室をいくつも紹介されるなど、本学で学ぶことは大変な光栄でした。
更には、国際的な学術プログラムへの参加を経て、私は見解や違いについての学び方の多様性と直面しました。
私は、社会へ向けての貴重な貢献を生み出すことに気づくこととなり、それは社会の関心と要求に向き合うために必要なものでした。
研究室の話に戻ると、本研究室では毎週ゼミが催され、三人の先生と様々な国籍の学生30人が参加していました。全ての参加者に向けてプレゼンテーションの用意や研究の共有などを行い、この場を通じて、私は科学的研究の手法について、研究分野の近い研究者の方から、紹介されたりアドバイスを受けたりしました。私は、こういった体制や今日お印と学生の距離感の近さといった、この朗らかな雰囲気を非常に心地よく思っています。時松先生は大変に献身的な先生であり、実り多い議論ができ、また素晴らしいフィードバックや激励の数々を頂戴しました。研究において、様々な形で支援を受け、他の先生方も非常に親切で、その指導法は大変に興味深いものがありました。これらのどれもが大変に印象深いものであり、学生同士の意見交換や議論を大変に楽しみ、彼らは大変に輝かしい学生でした。
本学やこの研究室への新たないかなる学生に対して私が言いたいのは、「あなたの人生に訪れる全ての機会に身を投じ、それらを楽しみながらも、修学と社交性の双方の正しいバランスを得ること」です
教員からのコメント:
彼が修士修了時に執筆してくれたtestimonial(Webにアップロードされている)を見て、その当時に私は教員からのコメントを掲載していないことに気づきました。ここに彼の修士博士の5年間の記述を行いたい。当研究室発足からの7年間のうち、5年間を彼はここで過ごした。しかもその間、ご成婚、お子さん生誕というライフステージも経験。気づいてみたら、彼の黄金期をどっぷりと過ごしたことになる。研究室を主宰する教員としては大変光栄なことだ。彼のメールによるファーストコンタクトは、2014年6月末。エネルギーシステムに関する研究に興味、BPPT技術省のエネルギー担当官僚、国から奨学金、ガジャマダ大学卒業、ジョクジャカルタ育ち。何というご縁。大丈夫だろうか、とやや不安ながらも受入れることに。実際、来日して研究室生活で、コミュニケーションを始めたら、大丈夫かな?。入省間もない若手のホープなのだろう。ここで鍛えて母国に戻さないと、と気を引き締めた。初期の頃、インドネシアの電力需給システムのモデル開発を行う作業を行った。プロジェクターでプログラムソースコードを投影しながらいじり、入力データを探すなどの作業。ある程度作業は進み、2016年秋のローザンヌでの国際会議で論文発表。一方、技術評価により近いテーマに変更する旨のBPPTからの方針があったとのこと。その頃からAziz先生との共同研究が始まると同時に、彼の快進撃につながった。既に同じく2016年秋の北京での国際会議ではBest poster presentation awardを獲得して関係者一様に驚き。その頃には、彼はめでたくご成婚。奥様には北京の国際会議場でお目に。これは未だ彼がM2の時期。彼に関連する研究テーマは、彼がほぼやり尽くしてしまった感がある。博士課程進学後、彼は海外の国際会議で毎年発表、5本のファーストオーサーの査読付き論文(共著論文も2本)、彼自身や私自身が見つけた学内外の様々な海外派遣機会(グラスゴー、チャルマース、ウプサラ)など、多くの成果発表、充実した経験を得た。D2の冬にはお子さんが生まれ、奥さんも博士課程学生ゆえ、子育てを通じてプライベートも充実していたに違いない。彼は、日本的スタイルを身に付ける「努力」をしたとのこと。けど、初期の頃からさほど大きなカルチャーギャップを彼には感じなかった。インドネシア人は、一昔前の日本人に似ているのだろうか。”適当さ”加減、一々こまごまと指示しなくとも相手の望みを把握、周囲との協力、公共への貢献。常に心がけてくれた。研究室の研究インフラに対する様々かつ多大な貢献は、本当に助かった。こうして来日してからの5年間で、彼はちょっと頼りなさなそうな独身若手から、多数の成果を挙げて自信を身に付け、家族も養う一人前のシニアレベルの研究者として成長した。今後も彼自身が成果を挙げつつ、次のジュニアの鏡となって人材育成につなげ、同国の発展につながることを期待します。
時松研究室で過ごしたの2年間超では、私は自己成長を目標に努力したことに加え、指導教授と週囲の学生たちから大きな助けをもらいました。ゆえに、日本の社会人として必要な価値観を樹立してきました。また、教科書で学べなかった沢山の知識、能力と教養を、この研究室で身に付きました。
まず、研究室の学習で、私は大量の文化や知識を蓄積する機会を得ていました、こうして仕事の実務にもある程度の準備ができました。研究室では環境エネルギー、MOT(マネジメント・オブ・テクノロジー)、理系のための経済学や金融の知識など、多元化の知識を学ぶことができて、全く退屈ではありませんので、私が真剣に勉強に取り組むことができました。そして、私にとって外国語である日本語と英語の面では、授業中や各種学内外の発表などの活動を通じて、リスニング・スピーキング・リーディング、ライティング、翻訳などの能力も訓練されました。
次に、研究室で日本の先端技術や日本国内外における科学と文化に触れる機会を頂きました。指導教授から紹介頂いた各種学会で、日本製造業における悠久の発展歴史と誇り高きの技術を拝見したことだけではなく、日本技術が世界のトップに立っている理由である強い技術経営ついて研究したこともできました。また、アメリカ短期留学にあたって研究室も資金面で援助して頂きました。これらの日本国内外の交流活動で、日本及び海外における優秀な科学研究者や企業経営者と切磋琢磨したり貴重なチャンスを得ました。
最後に、最も重要なことは、研究室で皆の学習や研究に対して真面目な態度を感じたことで、自分の性格も洗練されました。こうして将来の職場にも実務に専念することができて、革新の心を持つことができると信じています。指導教授とまわりの学生皆真剣に研究に取り組んでいて、研究で得られた結果に対して色んな面から考察したり、論理的に結果に辿りつく理由を説明しています。そういう風になるために努力した経験は私にとって大きな宝物で、未来の仕事の順調に展開することに繋がっていくかもしれません。
そしてこの研究室の悪いところをいうと、忙しすぎることです。基本的に外のアルバイトに就くことができないため、必要な生活費などは貸したり、両親からもらっておいたほうがいいと思います。
2年間超の時松研究室での生活は人生の旅にとっては短いすぎるかもしれませんが、とても充実で、輝いている人生経験だと思います。中にも汗と得物に溢れて、人生の夢を追い掛け続ける道においては必要不可欠な時間でした。時松先生と研究室のみんな、ありがとうございました。
教員からのコメント:
忘れもしない着任直後の春に「時松教授」から始まる強烈な熱意を示すメールを祝さんから頂きました。実際本人にお目にかかり、中国出身でリバプールに留学、大の日本好き、今まで身に着けてきたこと、在籍期間中に身に着けて分析したいこと、将来への展望などを一枚紙にポンチ絵をお持ちになり、それを説明してくれました。そのポンチ絵は私の宝物の1つです。初めての教員経験の私はそれだけで、「この学生さんは育て甲斐がある」と直感しました。無事に試験をパスしたので指導教員をお受けすることにしました。
彼はスケジュールを常に考えてカレンダーとともに、授業、自分の研究、ご自身の夢(生損保のアクチュアリー)の勉強、就活と、限られた時間をやりくりしてきました。彼は幸いなことにロチェスター工科大への短期派遣中に分析技法を当時滞在中の産総研・松本光崇さんの指導のお蔭で身に付け、また同期の前田衛孝さんに重回帰分析なども習って、何とかこなして行きました。彼(私にも)は周囲に恵まれたラッキーボーイだと思います。研究室の研究領域における彼の貢献は、技術予測の1つの手法としての技術経済学のそれ用いて技術の普及への適用可能性を探るとともに、統計学的な手法を用いてその要因分析を試みたことにあります。
彼の場合、目の前に目標を作り、少しずつ改良を加えコツコツと成果を作るのに向いているので、学会発表をペースメーカーとして進め、結果的には1つのまとまった成果らしきものになりました。幸い、彼は持ち前の性格と喋り能力により口頭発表は教員が付き添わずとも全てこなして来ました。これは普通の修士学生にしては特筆に値すると思います。彼の研究室に対する貢献は、研究上だけでなく、日中英を卒なく使いこなし、日本人特有のコミュニケーションも習得し、飲み会の幹事も遂行するなど、幅広でした。
在籍感想(本人の言葉をそのまま載せています):
様々な大学院かつ研究室の選択肢がある中で、時松先生のお話を聞き、この研究室であれば、自分の考えた研究を遂行でき、それに対する研究環境を整えてくれるであろうと思い、また失礼ながらも時松先生の率直さに惹かれ、時松研究室を選びました。そのイメージは的中しており、時松先生には研究を遂行するために必要な環境を色々と整えて頂きました。
また、時松先生には2回もの留学の機会を与えて頂き、シンガポール、アメリカにそれぞれ研究留学する事が出来ました。正直、留学は生活面、研究面共に非常に苦労した思い出しかありませんが、その経験が今後の自分人生に活きてくることは間違いないと思います。
そして、時松研究室は吉川研究室、高橋研究室と合同でゼミ等を行っていますが、様々な国の留学生が研究しに来ており、多くの刺激を受ける共に、多様な文化を学べ、普段絶対に関わることの出来ないような人達と仲良くなることが出来ました。
時松研究室に入ったことで今までと違った環境に触れ、人間的に一回りや二回りも成長することが出来ました。今後社会人として、得た経験を活かし、社会に還元し、日本・世界の更なる発展に寄与できればと思います。
最後に時松研究室を考えている方にアドバイスですが、正直指示待ち人間には決して向いてない研究室だと思います。一方で、自分主体で研究に取り組みたい人には非常に良い環境だと思います。気になる方は、研究室の雰囲気を知るためにも、ぜひ時松研究室に見学しに来てください。
教員からのコメント:
着任もしていない2015年3月末に、未だ大学のメールアカウントを入手もしていないアドホックのgmailアドレスに突然とメールを頂きました。そういう意味では最初にコンタクトをしてくれたのは彼でした。研究室説明会に来てくれて個人プロファイルを記入して頂いた内容を見て私は愕然としました。何故なら私の大先輩であり、私の主たる分野の1つで偉業を築いてこられた東京理科大学の森俊介先生の研究室だったからです。駆け出し教員の私には何故だか不思議でなりませんでした。その理由はおいおいわかりました。彼はTOEICを800点以上取り、価値システムの筆記試験でトップでした。
無事入学した彼は非常にしっかりしており、自分の意思と目標を持ち、それに向けて進めたいと、適切にコミュニケーションを取ってくるので、たいそう驚きました。また周囲との協調性、リーダーシップ、周囲への献身的な貢献、同期(祝さん)もとより後輩への面倒見の抜群の良さ。これも後になってわかりましたが、ご家庭でのお育ち、家族構成、大学学部卒業まで長年鍛えてきた野球部でのコミュニケーション、判断能力、チームワークなどが彼の人間力を鍛えてきたことを、彼を通じて私が逆に勉強させて頂きました。
彼の研究室運営の貢献は計り知れません。同期(高橋研・泉さん)と実質2名で2014年夏のBayuさんのFarewellから始まり多数の飲み会の切り盛り、研究室入口座席での来客応対、といったことだけでなく、同期(祝さん)の分析手法の伝授、就活での中国人留学生5名以上のエントリーシートの添削や面接練習など、3研究室に共通する運営だけでなく、当研究室のウェブサイト開設(入学してから1年以上かかりましたが)、後進への統計分析手法の伝授など、筆舌に尽くし難い貢献でした。日本の研究室では普通のことでも国際化の波は逆に外国人留学生のフリーライドにより日本人学生に負担が多くなる問題も生じています。
研究面でも彼は自分で考えて進めてきました。卒業論文で打ち込んだことを更に自分なりに発展させ、国内学会と国際会議での発表を目標にしました。それに応え、さらに伸ばすよう、卒論を環境情報科学で査読付き論文にし、1000字およびフルペーパーによる査読付き国際会議にも申し込み、倍率数倍という難関の採択率の食料の国際会議でポスター発表もしました。彼の進路が資源ビジネス(ご家庭環境がそのようです)ゆえ、短期海外派遣では1年目はシンガポール、2年目は国際会議の後同じ農業が盛んなニューヨーク州のロチェスター工科大に行きました。修士論文の内容でも2本の論文を作成中です。教員としては彼の希望通りに-逆に彼をtransformさせるまでの指導はできなかったのですが-2年間の機会を提供できたことを嬉しく思うとともに、彼の将来の成長-彼の夢である会社でトップになること-を実現することを期待しております。
初めに、自己紹介をさせてください。私はインドネシア人のAnggoro Cahyoです。私は2016年秋学期(10月)に修士課程に入学し、時松研究室に参加しました。私は、地理学、特にリモートセンシングと地理空間情報システムを環境管理と再生可能エネルギー分野に応用したいと考えています。時松研究室の生活は簡単なことではありませんでしたが、とても難しいものではありません。第一段階は履歴書および研究計画書を電子メールで、時松先生に連絡することです。研究についてメールで話し合った後、次のステップは、入学試験に必要な書類の準備と作成です。修士課程の入学試験の一環としてのスカイプで面接が行われ、学部の他教員からも電子メールで質問されました。
この2年間の経験は大変素晴らしいものでした。私はこのラボに初めて来たとき驚きました。なぜなら、私は地理科学の分野を学部で勉強していたため、他の研究室メンバーとは異なる分野だったからです。しかし、そのおかげでたくさんのことを学び、エネルギー分野への応用につなげることが出来ました。 時松先生は、研究の指導、助言、および支援において大きな役割を果たしています。さまざまな研究を行い、国際会議に出席する機会は私がこの研究を完成させる大きな動機となりました。さらに、洞察力と、プレゼンテーション能力が向上されました。
研究室の快適な雰囲気もまた、一つの要因です。常に助け合い議論する研究室のメンバーは研究室を快適なものにし、彼らによる研究への提案は大変有意義でした。会議に出席したこと以外に私に感銘を受けたもう一つの経験は、私がビリトン島の発電所を訪問したときのことです。訪問中、私は特に再生可能エネルギーと石炭を主なエネルギー源として発電する方法について多くの経験と知識を得ました。発電のエネルギー源としての廃棄物の利用方法についての知識と理解も新しい発見であり、それは災害や気候変動マッピングの分野での私の仕事と地域計画に関して非常に有用です。エネルギー源としての廃棄物の利用は、特にアブラヤシ農園において可能性があります。私の論文では、農園とパーム油工場の管理における主な問題として、廃棄物をあげています。木材、殻および繊維の廃棄物は、嫌気性プロセスを有するパーム油工場からの燃料および液体廃棄物をバイオガス発電所の供給源として使用することができるので、再利用が可能です。
そして、時松研究室で研究をしている皆さん、意識を高く持ち続けてください。 常に研究室に参加し、先生や友人とコミュニケーションをとることは、研究の質を向上させるための方法の一つです。 時松研究室に入りたい人へは、この証言が有意義であれば嬉しいです。 時松研究室で一緒に過ごすのがどれほど快適で楽しいかについて伝えられたでしょうか。私たちが研究をするときには困難や障害が存在しますが、良い先生と研究室のメンバーからの助言とサポートによって、乗り越えられると思います。
この研究室に参加して勉強する機会を頂けたこと、会議やフィールドトリップを介して経験したことについても改めて感謝しております。
より多くの人に認知されるよう、メンバーや論文の数を増やして時松研究室が発展することを願っています。どうもありがとうございました。
教員からのコメント:
彼は2016年2月に初めてメール連絡をくれました。インドネシアの役人とのこと。ガジャマダ出身。私にとり未経験のGISを使った研究提案でしたが、研究室メンバーに互恵が期待されるゆえ受入しました。2016年9月入学。(良かれ悪しかれ当然だが)「手がかかる」のが学生だが、彼は静かにコツコツと着実に研究を進めるタイプでした。適度なタイミングで、短時間でも要領良く報告し、私の詳細質問にも答えられるよう、予めテクニカル詳細資料も用意する、周到の良さをいつも発揮してくれました。役所勤めで鍛えられたものだけではなさそうです。研究室メンバーが増加する、新たな任務として私のスケジュールを学生間でシェアし、打合せ希望時間を調整して、私に報告するという役目を作り、彼にアサインしました。着任後半年後です。これに限らず、色々と彼が気を利かせて、学生関連の研究室運営をサポートしてくれました。時折、研究室をXXXで雲隠れしていましたが、これは単身赴任する彼には、日常生活必需品だったようです。そうした彼とは冗談を良く言い合ったものです。楽しい思い出です。そうした彼の的確なコミュニケーションスキルと、着実な前進から、安心して任せて前進できるタイプでした。多忙のあまり詳細経緯を失念する私に、時には事前に整理報告し判断材料まで揃えることで、時短省力まで行ってくれました。フィールド調査、国際会議出張、論文執筆、技術調査、全て的確・着実に実行してくれました。帰国後戻った母国政府においても、安定感のある着実な職務遂行し、将来大物になることは間違いありません。
この東京工業大学での博士課程での生活は、間違いなく私の修学してきた人生の中で最高のものでした。
様々な東工大での関連講義の受講や、さまざまな技術的バックグラウンド・意見・考えの混ざる時松研での生活の中で、私はエネルギー分野の研究について自身の夢を探求するために尽力しました。
技術経済学・社会経済学・環境的リスク分析といったものが本研究室の軸であり、エネルギーシステムの評価の統合を図っていました。
研究室のメンバーは、各々の指針の下、それぞれ独自の研究計画を定めていました。
またメンバー同士のコミュニケーションは、各々の計画をまとめ上げて行く中で、より闊達に行われていました。
私個人のコミュニケーションに関する経験は、社会学を交えたエネルギー経済学に携わった私の研究計画に反映されました。
この共創の結果は研究室の指針である社会経済学に関する私の知識をより高め、これこそが私の最も輝かしい経験でした。
このような研究に関わる科学的な議論と併せて、研究室もメンバーは毎学期のパーティに参加により親密になり、私自身も非常に楽しんでいました。
また、このようなパーティにおけるカラオケは大変に良いエンターテインメントであり、欠かすことはありませんでした。
改めて、今日の私の研究活動を支える様々な機会や、毎週のセミナーのみならず学内外の研究会や学会などの場を用意していただくなど、指導教官の時松先生に感謝いたします。
これらの機会を経て、同輩たちとの効果的なコミュニケーションや協同は一層促進されていました。
思い返せば、シンガポール国立大学のエネルギー研究所、南洋理工大学(シンガポール)のエネルギー研究所、台湾の工業技術研究院などでの研究会への参加やプレゼンテーションなどは、大変に貴重な経験でした。
これは、私にとってプレゼンテーション技術の研鑽や自信につながる、大変に価値ある機会でした。
また、時松先生は単なる指導教官ではなく、その責務を超える私の就職活動においても常に助言をしてくださいました。
私は二度TAとして講義をサポートする機会があり、これは私の英語能力の見直しや、様々な国籍の東工大の学生と共に指導経験の探求につながりました。
最後に、この時松研究室では、極めて自由闊達な環境の中で、各自追い求める研究に取り組める事と思います。
教員からのコメント:
初めて彼から連絡を受けたのは、2015年11月の私の誕生日。テヘランという彼の出身地は勿論知っている。その名を冠する大学だから同国最高学府に違いない。しかも学業成績はとてつもなく優秀。何故、私に連絡を?・・・様々な事情は、彼が在籍した2年間でおいおい理解した。指導教員として知り得た、個別事情はここでは触れまい。社会人経験で誰にでもある。手続き面での紆余曲折を経て、2016年9月無事、文科省奨学生として入学した。
彼は社会人経験者であり、30台半ばであったとはいえ、入学後から卒業まで、一言で言えば、全てにおいて凄かった。研究への情熱と大志、仕事のスピード、PDCAサイクルとホウレンソウ・・・。初期の頃は、何週間先までの案件を抱える私が、分刻みで今日明日明後日の案件処理せねばならないhecticな状況で、もっと先のことまで計画立案の時間が欲しいと彼に頼まれた時、「とてもじゃないが、目前の処理が溜まっているから、後回しにさせてくれ」と私がパニック状態で彼に言い、彼が驚いたことを思い出す。
大変おこがましいが、弟子に何も教えることはない、という中世イタリア時代の名言がよぎる。ところがそうではなかった。歳相応の難題は時空を超えて降りかかる。これも口外できない。私はまたしても自分の過去をフラッシュバックした(別学生別経験のように)。彼を通じて痛感した。私はこの時の彼のために居たのだと悟る。これも教員の重要な役割なのだ。
私が自分の経験を踏まえ、彼に指導教員として最大の役割を果たした1つは、この時だった。彼はとても辛い状況であった。ここは2人3脚で乗り切らねばならない。苦難であった。彼の頑張り粘りと私の機転で難局を突破した。それが突破口となり、その後の快進撃につながった。人生、時には幸運の女神も微笑むことがある。IAEE 40th Singapore大会で4人の学生ベストペーパーの(欧米以外唯一の)1人を受賞した。
最後の博士論文を通すことが、文字通り最後の難関となった。彼の履修するコースで初めての「2年で博士を卒業」。彼は本気でまっしぐらで目指した。本学教育改革後の最初の短縮博士修了学生であることは間違いない。これも「前例のない」ため難産であった。しかし、彼の猛烈な熱意による実績が、重い扉を開けた。彼の奥さんも報われたであろう。
彼のように振り絞る努力には、女神は微笑むこともあるが、微笑んで頂けない私は、まだまだ努力が足らないのかと思う。これだけの天下一品を売り込む世界営業行脚したが、販売員(指導教員)の力不足。本人の心底なる希望で現在の職へ。これだけ優秀な人を、天は見放すまい。愚直、直球勝負、実力があるゆえの謙遜。学究者の鏡、この世にまだ健在なり。
私が時松研究室に配属されたのは学部3年の2月ごろでした。当時の私は、研究に関してあまり考えておらず、研究室の見学もしないまま、ホームページで持続可能社会の実現に向けた研究が面白いかなと何がやりたいでもなく、漠然とした感じで希望調査票を提出し時松研究室に配属となりました。入った当初、先生より、何かやりたいことを先輩に聞いて見つけてくださいと言われつつも研究室にあまり行かず(コアタイムがないこともあり)だらだらと過ごしていました。時松先生は生徒がやりたいことをしっかり持っていれば、海外派遣や学会情報など様々な支援をして応援をしてくれますが、やりたいことを持っていないと難しいようで、自分がやりたいことをさせてあげたいというお考えからか、どうしたら良いかわからないという膠着状態になってしまいました。私が6月まで全く進展がなく来たものですから、大学院入試を第一志望で出していたものの、うちで本当に受け入れて良いものかわからない、ということで、他の研究室に行くことになりました。ただ、大学院入試の勉強については大変だろうと、きちんと気遣いをいただき、しっかり勉強させていただきました。大学院入試後、先輩が行なっている研究でやりたいことを見つ
け、しっかり支援していただき、関連研究の先生のご紹介や、大分での実地調査に派遣させてくれるなど、様々な支援をしてくださいました。その結果、研究に関する心構えを学び、また無事に卒業させていただける結果となりました。また、海外へ行く機会としてマレーシアへの一週間の短期プログラムを提案くださり、行くこともできました。この研究室は東南アジア諸国との連携した研究を多くしていることもあり、多くの留学生が所属しています。(むしろ日本人が少数です)留学生は英語が苦手な私にも優しく、時松研究室(合同研究室の高橋研究室も)はとても良い学生が集まっています。また、上記した通り、時松研究室は何がやりたいか定まっていない人にはあまり良い環境とは言えませんが、やりたいことがあり、それが当研究室にフィットしている場合は、精一杯支援してくれます。そのため、やりたいことがあり、近いなと感じれば、先生に連絡をとり、一度お話しする機会をいただくと良いかと思います。精一杯、最善の選択へサポートしていただけるかと思います。
教員からのコメント:
彼は、現行の新教育体制に移行し、融合系学部から、すずかけ台にも配属されるようになった学部学生の第1期生。受入可否選択可能な大学院入試と異なり、学部生配属では学生意向のみ聴取され、教員側には受入以外の選択肢はない。12月末日に配属が公開され、実際に本人と話しが出来たのは1月中旬頃。彼は甘いマスクの長身、物腰柔らか、静かな語り口の、落ち着きのある学生でした。研究室ゼミの自己紹介で、彼が内部生、サッカー選手、などを語った際に、中国人女子学生の目が何人も輝いたことを克明に思い出せる。12-2月は例年過酷に多忙な上に、上司の退官記念パーティなどもあった。「私からコンタクトを取る時間も余裕もないから、特定課題研究のテーマ選定や文献調査について、私にメールを入れて」と、彼を含む2名の配属学部学生には伝えた。とは言っても学部生だと自ら能動しないのが普通。ゼミに彼が出席していても、本当に多忙のあまり、ほとんどコミュニケーションも出来ない状況が続いた。研究室メンバーへの巻き込みが不十分にも関わらず、3月末の退官記念パーティで、彼は活躍してくれた。一人で私の飲みに最後まで付き合ってくれた。年度変わり4年生になってからの数ヶ月間、卒論、就活、大学院試に関する会話が本格化。就活と院試の両方を行うという理由で、年度前半で終了する特定課題研究ではなく、通常の卒論を選択。これをやりたいというテーマが無く、何をやってもそれなりに楽しめる、というので、反って梃子摺った。本人の反応や発した言葉をキーワードに、赤い糸を手繰るように、色々と文献等を渡した。本人の回答は本人なりの理解と考えがあったが、本人のストライクゾーンが広く、ピンポイントな答えを本人も見つけられず仕舞い。就活に関しても、行きたい会社は絞られているが、何故その会社でなければならないのか、何をやりたく、何を目指し、何(のキャリア)を得たいのか、など十分に答えられず。大学院進学についても同様。会話を重ねるにつれ、サッカーでもオールラウンダーで、何事にも無難に卒なくこなせる総合力が高い人材だと理解するように。不可解な状態からは脱却出来たものの、本人が持つ目的に対してバックアップサポートを行う方針の私は、何の指導をして上げたら良いのかわからない。途方に暮れる。これでは私自身のリソース投入や、自己目標を高く掲げて入ってきた研究室メンバーにも良くないと判断。大学院では受入ないことに決めた。本人は比較的成績も良く、他研究室で合格するとともに、他大学にも合格して、最終的には道を拓いた。この決定は腹痛を伴い、これで良かったのか、と自問自答を繰り返すことに。卒論テーマも院試後に、関心が近そうで、日本人を必要とするイラン人学生とのセット、という何とも消極的な決まり方に。本人とも何度か事ある毎に話しましたが、本人は例の要領で自分はこれで良いと思うと。このような状況ではあったものの、在籍期間中は本人のためになる機会を、とマレーシアの貧困地域への派遣を捕まえて支援し、イラン人学生との国内調査派遣の機会を作り、卒論も外に出して恥ずかしくない程度には行った。私にも教員として考え方の幅を拡げてくれる経験を彼はもたらした。私との経験で、彼の今後の成長の糧になってくれればと願う。
私は多くの研究室の中から博士号取得のため、時松研究室を選びました。卒業後の今、この3年間を振り返ると、いくつかの理由でこの研究室を選んだことに間違いはなかったと考えています。高等教育課程(すなわち学士・修士・博士課程)を違う大学で修了した私にとって、時松研究室の環境は非常に素晴らしいものでした。自分の学術的な興味・関心を追求する自由を頂いたおかげで、この3年間で大変満足のいく研究が出来ました。時松先生は学生に研究活動を急かすことはなく、学生が研究を行う上で必要な基礎知識を身に着けることに重点的に時間をかけます。そのため、研究を開始した時には、既に自分の研究分野に精通するまでになっていました。その上、多くの研究室とは異なり、時松研究室は学生にコアタイムを要求しないだけでなく、定期的な進捗報告を欠かさなければ、研究室へ通うことも強制されません。これは自己規律のスキルを身に着け、大学院生としての自覚を持つために大変素晴らしい方法だと思います。また、時松研究室は国際的で活気に満ちた研究室です。様々な背景を持つ留学生との交流は、私の視野と人生観を多様化しました。一方で、東工大は実験装置や技術に関しては最先端の設備を揃えていますが、机や椅子といった事務用品に関しては常に新品が提供されるわけではありません。また、時松研究室が所属する、すずかけ台キャンパスは東京から少し離れた場所に位置しているため、東京住まいで電車通学が長い方には少々不便かもしれないことを注釈いたします。とはいえ、時松先生は東京の大岡山キャンパスでも可能な際にはミーティングの機会を用意して下さることもあります。最後に、時松研究室での思い出はどれも大変かけがえのないものです。時松先生と研究室メンバーの成功をお祈りしています。
教員からのコメント:
彼からのファーストコンタクトは、2016年3月初頭。初めての日本語による留学生からのメール、しかも初めてのサウジアラビア。当時はM1で技術経営を、学部では電気工学、博士では母国において一般家庭に太陽光発電を普及させる政策研究を行いたいとのこと。彼の経歴と、日本は多大にサウジアラビアに支えられていることの恩返し、サウジに太陽光発電を広める?大変ショッキングでチャレンジングなテーマ、これに取り組む若者を育てるなんて何と素晴らしい、と。研究室で直接会って話したら、人柄が良く素晴らしい好青年。我々の研究室に是非、と。教育改革1年度が終了した混乱時に入学。複雑怪奇な単位履修方法、リーダーシッププログラムや一般教養のように特に狭き受講枠は、日本語を読めて話せる彼のような留学生でも「全くわからない」代物。彼に限らず、特に私学から来た学生は、「学生相談」「学生支援」「教務」の漢字さえ認識でき、そこに「駆け込み」助けを求めれば、詳しく丁寧に説明もあって困ることがないのに、と。本学の事務システム改革として非常に重要な意見だと思った。学生は若いからか、1つのことに集中没頭できる。逆に複数同時にマルチタスクで同時並行進行が、得てして苦手(自分も若い時はそうだったかも知れない)。彼の3年間を振り返ると、授業、文献調査、調査票作成、調査、分析、査読付き論文執筆、学位論文執筆、査読対応など、思い出せるだけでも、彼の場合は時期がかなりクリアーに分かれていた。結果的に時間に間に合わせたが、これは良くなかった。研究は時間がかかる。研究を進めないと卒業が出来ない。博士課程の最初から、単位履修の受講をしつつ、少しでも研究を進める必要があったのだ。学生本位を重視すると、そのスケジュール管理は容易ではなかった。結果的に後になって皺寄せが来て、帳尻を合わせる。仕方なくMDPIに高額なOA費を払う。そうは言っても学生一人ひとり個性、事情、ペースなど千差万別。会社と違って給与の対価としての命令ではなく、彼らの興味関心探究心を殺ぐことなく、モチベーションを保ちながら進められるよう、特に感情に配慮せねばならない。教員になって理解した。学生は教員には見えない内面に脆さを抱えている、と思って接すべしと。予算・卒業までの時間制限・私の時間など全てが限られたリソースで、事務日程・論文投稿など様々な制約をやりくりしながら、間に合わせ、卒業させてやらねばならない。国費等の留学生の場合、在籍期間延長は奨学金を止められ、生活不能になる。審査期間延長という方法もあることも説明した。このようなことを、複数同時に審査を受ける博士学生がいる。マネジメントは教員の力量が試された。私も教員として鍛えられた。彼と議論をしていて、もう1つ理解したのは、彼はパーフェクトに正しく、クリアーで曖昧がなく、ルールで定められていないと安心できない。これは、何事も良くも悪くも曖昧な日本社会とはまるで違う。これは個人的性格のみならず、育ってきた文化的背景の問題とも推察した。アラーの神と八百万の神。ここはリクエストされる以上、サーブする立場である教員側もスタイルを変えて対応するしかない。そうは言っても「全知全能のアラーの神ではなく、私は単なる人間なので、調査はやってみないとわからない」。彼にはさぞかしストレスだっただろう。学位論文を審査する教員になって理解したのだが、よくある問題点は論文構成やまとめ方である。彼の場合そこは問題なかった。調査票と分析の段階から、彼がロジカルに整理したからだ。彼の場合、彼にとって最もストレスだったろうことは、元々彼にとっては暗黙の前提に関わる点について「わからない」とコメントを何度も頂いたことであろう。彼に限らないが、最後は如何にわかりやすく「伝える」ために、書き込むか、見せるか。彼との作業もそこに心血を注いだ。
彼とホワイトボードに描きながらのディスカッションで、学位論文の構成の見せ方を二人で開発した。我々のイノベーションの宝物と呼んだ。そうした作業は他学生の学位論文のみならず、私自身の論文執筆スタイルにも好影響を与えた。本当に知的な成長を感じさせてくれる機会だった。こうして、査読付き論文を1本1本作る作業もさりながら、学位論文としてまとめる作業はタフだった。本人はそうしたストレスを溜めながらも、質を上げる努力を行っていることを正確に理解し、全身全霊を込めて学位論文の修正作業に当たった。2,30代の若さを既に失っている50歳教員は、その若いパワーをサンドバッグのように受け止め、一緒になって創意工夫を考えた。唯一無二の、彼にしか出来ない仕事を学位論文という形にして世に出すことの使命感。タフだが同時に、知的刺激と興奮で、大変やりがいのあるものだった。そして「私のところでなかったら、カリードさんの学位論文は作れない」と励ました。彼の学位論文での調査自体も大学学部から日本に留学し、彼の人柄による信頼で、長年かけて彼が築いた人脈によるもの。未来永劫、この世おいて、彼にしか出来ない仕事。彼は本邦サウジ国大使館とご縁を頂き、大阪G20サミットにも同行した。彼の仕事は、今後の世界のエネルギーと経済を支える上で、同国の政策にも多大な影響を与えるものと信じる。そして、そのような成果が当研究室から世に出すことを出来たことを誇りに、嬉しく思う。
私が時松研究室と出会ったのは、学部4年次の指導教員である芝浦工業大学の栗島先生のご紹介でした。当時、漠然と卒業研究のテーマとして東南アジアを取り上げ、そのエネルギー・環境問題解決の一助となることを志していた私にとって、東南アジアを始めとした世界中からの留学生がエネルギー・環境問題解決に貢献しようと切磋琢磨して研究に取り組んでいる姿が大変魅力的に映り、志望するに至りました。
時松研究室では、教授や先輩から研究テーマを与えられることはなく、自ら研究テーマを設定し、研究活動を遂行していくことが求められます。時松先生は適宜学生の進捗報告を確認し、研究方針が外れている時に指摘と助言をするという方法で学生を指導します。研究活動で直面するテクニカルな課題については、自ら文献調査やシミュレーションを行い解決する必要があります。そのため、自己を律し、自分の研究活動に責任を持てない場合は論文を書き上げるのが厳しい状況になると思います。
しかし、自分から積極的にチャンスをつかもうとする学生へのサポートは大変に手厚いのが時松研究室です。本来であれば、海外の大学教員とコネクションや金銭的なサポートが無ければ、海外をテーマに取り扱った研究を行うことは出来ません。しかし、時松先生は出来る限りのサポートをして下さります。私自身、海外の大学とのコネクションや豊富な資金はありませんでしたが、先生のサポートによって計7か月程海外に滞在して研究を行うという機会を得ることが出来ました。
このように、時松研究室は志を持つ学生でなければ厳しい研究室であるという事に間違いはないと思います。しかし、自ら道を切り開いていく力を付けたい学生にとっては、絶好の環境になると思います。時松研究室に興味がある方は、ぜひ研究室に見学に来てください。
教員からのコメント:
初めて彼と会ったのは、彼が卒論時に在籍していた研究室に私が訪問した初春のこと。彼の指導教員(私と旧知)から、ひょっとしたら今後お世話になるかも知れないからと紹介された。その時の彼は、まともに挨拶する訳でもなく、特段印象に残る学生ではなかった。その印象は、研究室訪問の時期でも1度だけ訪問に来るなど、さほど大きな印象の変化はなかった。彼の合格が決まった際は、私は彼を受け入れて大丈夫だろうか、まぁ、何とかなるさ、というもの。
ところがそうした彼の印象は一変。当研究室では入学前でも合格者には研究室の飲み会などには声をかけて参加を促す。彼は周囲に全く物怖じせず溶け込み、タイ語も駆使して留学生と交わる。さらに感嘆したのは、上司の2年に1度のOBOG会では、自身の卒論のポスター発表をA4紙に印刷し、誰彼構わず捕まえて説明して手渡し、研究成果の売り込み営業をするではありませんか!弱冠20歳台前半でこんなことするなんて、と感銘。
入学後一週間で、彼はサラリーマン金太郎(モーレツサラリーマン)とラベル。講義や研究に関するスケジューリング、文献収集や読み込み、自身が行う熱伝播シミュレーションの技術詳細の把握、私や共同研究先の産総研担当者への的確なホウレンソウ、事務職への丁寧的確な業務連絡、入学早々6月の国内での国際会議や、秋冬春のタイ滞在での研究者とのネットワーキングなどなど。タイ出張先の宿泊ホテルでは私の部屋の中に入り込んで給湯装置を見たいと。驚きの連続。研究者としての素質は既に十分具備。何故どのようにして、彼がこの素養を身に付けたのか、未解明。
査読論文対応についても、論文レビューや技術パラメータ設定のためのメーカーインタビュー、シミュレーション再計算など、我々や連名者にホウレンソウをしつつ、ほとんど一人でやりこなす。この頃には、私は彼をポスドクと呼ぶように。これがM1の終わり頃。
この時期に卒業した日本人学生との個別送別会の場で、新しい現行の教育体制で未だ達成した学生は全学的に恐らく居ないが、短縮修了するか?と彼に。この頃には思案の末に博士進学を決めていた彼は、その場で、お願いします、と。じゃあ、大変だが2人3脚でやるか、と。前例が無い故に、承認プロセスにも、2本目の論文となるタイでの実験成果の取りまとめなど、ハードでしたが無事修了となった。
彼にはその直後から、彼にとって初めての欧州3カ国での国際会議と武者修行に行ってもらった。これがまた一回り彼の視野と研究の幅を拡げることに。ここからの話は、彼が博士課程修了時に記す。お楽しみに(続く)。
教員からのコメント:
彼女は、私自身が面談もせずに受け入れることになった最初の学生でした。彼女の在学期間中に、ご自身の退任を迎えるから指導教員になって欲しい、というのが上司からの依頼。日本の生命線を通過するマレーシアにおいて、将来大学の教員になられる予定。マレーシアの主要産業の1つである油椰子の廃棄物問題を解決したい。私には未知なる課題。インドネシアが多い中で多様性が高まる嬉しい話。在任中に実験系の研究テーマについては上司ご自身で指導されるとの約束で、お受けすることに。本人も不安だったと思います。指導を請いに面談した相手に、見たこともメール交信もしたこともない相手を指導教員にする、というのですから。
来日・入学して面食らうことが多かったと思います。英国で修士課程を経験した彼女には、日本の大学教育や研究室運営などシステムは初期の頃は馴染まなかったようだ。ましてや現行の新教育体制開始直後の混乱。また、日本の食習慣では避けられない醤油や味醂。恐らくやや厳しめのムスリムで赤子を抱えた彼女には、当時相当ストレスフルだったに違いない。
赤子を一人産み、幼児期育てること自体、博士論文1本の労力に相当する。このような制約を抱えながらゆえに、研究テーマの選定も研究活動も慎重に進めざるを得なかった。初期の頃は講義単位取得を中心としつつも、上司のマレーシアでのプロジェクトのスタートアップを待たざるを得なかった。プロジェクト開発のために本人を(ご家族ごと)一時帰国させたりもした。時間を失いたくないので、同時進行でプロセスシミュレーターや経済性評価などの準備もするよう本人と話しをした。結果的には、この方針で正しかったようだ。
それにしても、強い制約下での模索は、本人はもとより、私にも精神的にしんどいものだった。最初の査読付き論文は、レビュー中心の論文。これが正規卒業の半年前。これでは間に合わない。本人からの提案は、奨学金が実質的に半年延長できるので、卒業を半年遅らせ、残り1年で実質2本の研究内容を終わらせ、論文化する、というもの。データ収集や分析、論文化作業を考えると時間がタイト。それでもそれ以外に手がなく、最後は月・週単位で修了事務日程を睨みながら、研究を進展させて行った。急ぎも焦りも禁物。何とかなるさ、とお互い最後まで悲壮にならず、無事間に合わせた。
彼女は、家庭では母や妻の役を果たし、博士論文の作業もこなし、この状況を3.5年間継続して達成したことで、研究者としても独り立ちをし、自信を付けて帰国したことと思う。実験系の経験も、経済性評価の経験も両方経験をしたことになる。母国の産業と環境の両面を理工学から考えられる。母国で教鞭をとられ、更なる研究の発展と教育に貢献されることを期待します。
教員からのコメント:
応募を考える学生は、誰しも「突然」連絡をくれるもの。応募を考える時期にメールを頂くので心構えがある。ところがHudaさんの場合は、応募〆切直前だったので、本当に突然、という印象。提案のあったテーマは彼の会社でないと出来ないもの。この先一度も無い、即決受諾。
当研究室では、学生自身で研究テーマを模索し、教員とディスカッションしながら進めてゆく。学生は研究を進めるうちに壁に当たり、どう進めたら良いか、迷うことを何度も経験。彼もその洗礼を。提案のあったテーマであっても、Aziz先生とのテーマであっても模索は一緒。幸いなことに、「自分なりに一歩足を踏み出す」で、私とAziz先生の意見は一致。「何でも良いから何かやりやすい作業を1つやってみてごらん」。彼の場合は、1,2ヶ月程度で足踏み状態を脱し、その後は比較的順調に。歯車が動きだすと、後は学会等の様々な機会を捉えて、歯車が回って行くもの。実際、国際会議や査読付き学術論文などの成果も挙げていった。
インドネシア人のネットワークのお蔭か、授業も含め、様々な機会を得て行った。彼は当研究室では留学生では最初のエネルギーコースの履修。当時は講義の英語化が進んでおらず、単位取得を私は懸念するも、特段問題なかったようだ。ADB奨学金での報告会、AOTULEで選抜されIITM(インド)への派遣など、研究室で機会を与えた国内外の国際会議派遣以外にも、経験を得て行った。奥さんも本学博士課程学生で、赤子を育てながらの生活で大変だったことと思うが、それも互助していたようだ。
彼は、研究室の運営に多大な貢献をしてくれた。研究環境インフラ整備についてはMac、プロジェクターやビデオカメラなど電子機器やネットワーク、データバックアップは、今でも手助けしてくれている。研究室のデスクアレンジメントとパーティションにも貢献。多大な感謝。
研究室メンバーにも多大な貢献を。私が橋爪路乃さんに現場を見せる必要性を考え、彼に会社のネットワークを使ってインドネシアの発電所などの技術調査のアレンジを依頼。訪問先とのコンタクト、現地内およびアクセスのロジなど、2ヶ月がかりで完璧にアレンジ。2度とない貴重な経験。これに限らず多くのことをOk, Senseiと嫌がらずに対応してくれた。彼のこうしたお人柄は、人望も厚く、今後の会社人生でも重用されることを確信します。
修士卒業前最後の2、3ヶ月の間に、時松先生は週に2回ぐらい時間を配り、私と打ち合わしをしてくれます。モデル計算の具体的な方法を議論する打ち合わせと、論文の日本語を単語まで詳しく修正する打ち合わせです。ある日、ミーティングは9時まで続いて、その後、家に帰ると途中まで先生と一緒に電車を乗りました。その時の20分ぐらいの会話はずっと記憶に残るかもしれません。
その時は計算がやっと終わり、論文まとめ、製図、仕上げが始まったので、電車で最終論文の内容改訂案について話しましたが、ついに話が変わり、友人のようにこのあっという間に終わった2年間を振り返りました。
2年前に私が研究室に申し込んだとき、先生偶然北京で学会があり、そこで私と先生会いました。実際、その前は研究目標はまだ具体的ではないため、先生は私を受け入れるかどうか長い間躊躇しました。しかし、北京で出会ったとき、私は自分で研究計画を再考し、エネルギーと環境の分野での研究意欲をしっかりと述べ、ついに先生の承認を得て時松研に入りました。
入学後、水素エネルギーに関する経済分析を始めたいと思い、幸い、時松先生は私の計画に賛成しただけでなく、水素エネルギーの分野で最も優れた2つの研究室、伊原研と小田研に私を紹介し、そレデマクロとミクロの両面で経済分析を行いました。これは仕事量と学習量を2倍にすることを意味し、苦しいと感じることもありましたが(当時、私は3つの研究室で自分の机があり、週三つ研究室を通ったり、 教授6人と私だけのスーパーミーティングに直面した)今では私の知識と達成度が2倍以上感じています。三研究室の教授の助けを借りて、私には想像もできなかった学術成果を達成し、国内外の学会に参加し、投稿論文を発表し、そしてシンポジウムで中国水素エネルギー協会会長の通訳を務める機会を得ました。
勉強だけではなく、当時の時松研究室での生活も楽しかったです。週に1、2回しか出かけませんが、グローバルなメンバー構成でいろんな人と話し合い、研究室に来るたびに楽しみにしています。それ以外の時は、メールで研究室のメンバー(英語)や先生(日本語)とコミュニケーションするため、語学スキルを身につけただけでなく、日本社会が必要とする綿密的、全面的な思考と丁寧なコミュニケーション方法を学びました。これは私がこの2年で学んだ最も重要な資産です。
また、学術的、生活的な収穫は卒業しても終わらないでしょう。卒業後、私はトヨタ中国の新しいエネルギー技術計画部に入り、将来エネルギー分野で活躍していきたいです。2年間に時松研で学んだ専門知識、日本の考え方、社会的コミュニケーション能力を応用し、日中エネルギー技術交流の発展に貢献したいと思います。
教員からのコメント:
初めて彼女からメール連絡を頂いたのは、約3年前の夏頃でした。東北大での学部4年生の交換留学(水素の実験)が終わり、エネルギーシステムに関する大学院研究室を探しているとのこと。同大学に著名な先生がおられるのに何故と問うと、留学生に適した入学制度が無いとのこと。日本生まれ、中国育ち。仙台はとても良いところだが、就職を考えると東京に来たい。研究室訪問をしたい。メール交信を続けるうちに、的確な日本語で比較的早くテンポ良く返信をくれるので、仮に受入た場合、コミュニケーションの点では研究指導は大丈夫だろうと期待しました。
次に彼女と会ったのは、10月の北京での国際会議のこと。会議会場で関連発表を聞いてもらって関心が持てるか、関連研究者にも会ってもらったりしました。本人とも2時間程度、在学期間中に何を期待するか、卒業後どうしたいか、それに対して私が何を出来るか、色々と話をしました。廃棄物関係に研究の関心があり、親御さんも北京で関連事業をなさっておられるとのこと。卒業後、北京は環境が悪く喘息の両親を日本に呼び寄せて、中国の環境改善に役立てられる日本の会社で働きたいとのこと。研究テーマと就職に期待を持ち、受入ることにしました。
実際には、研究テーマ、就職、いずれも外れに終わりました。その代わりに、日本人目線では戸惑う、中国人には「普通の」挙動を彼女から学ぶことになりました。学生さんは誰しも、将来の可能性を短期間で模索し、自己ベストとなる意思決定を行うものであり変更は当然のこと。とはいえ他の学生とは違い、彼女特有の「急な心変わり」には振り回され続けました。「心変わり」以外にも多くの目に余る我侭行動がありました。昔ながらの教員なら怒鳴って退学処分でしょう。「少なくとも日本社会では許されない。同期の武田さんという日本的行動の模範を見習いなさい。」そうした不良行動を何度も指導したものでした。
M2夏の香港国際会議以降、そのまま本人は中国本土で遊び、さらには10月上旬に登山事故も起こして11月上旬まで研究の進展なし。「一日24時間全てを研究に費やし、正月返上しても間に合わない。」「私は短期間でお化け屋敷を作った過去の経験があって自信がある。」。この珍回答には唖然としましたが反論しませんでした。彼女のプライドがようやく本気エンジンをかけました。それからというもの、研究内容の打合せと、論文作成の打合せを週2回のペースで進めました。(研究では当たり前だが)夜9時過ぎまで毎回数時間を要しました。私にとり過酷な時期でした。
年末年始の休みについても「絶対的時間不足の中でも、家庭との両立が社会に出ると求められる。今回はその練習で萌ちゃんが成長するなら」とカレンダーを睨み、作業計画を2人で相談、年末年始はどこに居てもできる作業にし、「最終判断は自分で。ただし自己責任。卒業が遅れても私はこれ以上無理。」と言い渡しました。数多くの心変わりと我侭が続いた中で、私にとって一番苦しい決断でした。本当にこれで卒業できるのか?最後は学生を信じるしかない。学生とともに指導教員として成長した瞬だったかも知れません。やり尽した所まで辿り着いた感じに2人が至ったのは、翌週が審査という1月末。
彼女との2人3脚はこのように大変なものでした。萌ちゃんは、このように「とってもnaughty」でしたが、振り回され続けたために、逆に皮肉なことに思い入れもひとしお。これも教員冥利の一種でしょう。私の日本酒にも付き合ってくれました。なお、彼女の名誉のために、「先輩を見習って査読付き論文を公刊したい」と卒業後でも頑張っています。
私がこの時松研究室を初めて知ったのは、学士4年の春でした。
当時、別専攻に所属しながらも、工学の一つの分野を深めていく修学以上に、工学と他分野との接合、とりわけ経済、政治、環境といった分野について非常に高い関心を抱き、講義や学内外にて学ぶことに励んでいました。
しかしながらその反面、同輩はじめ多くの東工大生が抱く工学に対する純然たる興味や、自身には熱量が足りていないのではないかという不安に悩むことも少なくありませんでした。
そんな中、この研究室は科学技術と社会との融和を是として掲げており、私が長らく悩んだ修士研究を実現するに申し分ない環境であると、初めて研究室を訪問した時に感じました。
この研究室での研究は、学生各々が自身の問題意識に基づき、自由に取り組んでいく体制が築かれていましたが、これは先生の手厚いサポートによるところが大きいものでした。
研究室所属前から一橋大学の研究室との交流会への参加や、ほぼ毎週個別で面談の時間を設け当初拡散していた自身の興味を整理することや、就職活動での様々な助言など、よりよい学生生活や公私双方に通じた将来を見据えた支援には枚挙に暇がありません。
留学生が多く日本人がマイノリティという珍しい研究室での日々や、二度のスウェーデンへの在外研究派遣、二度の学会発表や研究論文の寄稿など、これまでの人生経験の中で著しく密度の濃い二年間でした。
年間の私の所感として、この研究室は、自分自身の研究テーマに関する熱量、国内外問わず様々な環境への対応力、事務処理能力、これらの能力の大幅な成長できる環境であると思います。
科学技術と他分野を接合するような研究を志す学生が、この時松研究室にて実り多き未来を迎えんことを祈ります。
教員からのコメント:
約3年前の5,6月頃のこと。古めかしく堅い感じの文面メールを受信しました。内部学生で電気工学に在籍するも、文系科目好きで他大学にまで行き単位を取得、修士ではエネルギー安全保障のようなテーマに従事したいとのこと。オフィスで面談すると壮大な世界観に、電気回路工作実験中に文系本を読み漁った自分とダブり、「彼は私のところでないと本学では無理だ」と判断、その場で受入承諾しました。これが彼との最初でした。ただし、受検に合格する保証は無いから、一橋出願も視野に入れ、毎年恒例の一橋大山下ゼミ訪問に誘いました。彼が一橋を庭のように理解しており感嘆した記憶があります。彼によると同大学のみならず慶応まで行き、取得単位の6割は文系科目とのこと。「たまたま理数系が出来るようになって本学に来た」も、私と全く同一だと感じ入りました。
そうした彼は、残された学部時代の「冬」を乗り越え、桜の時期が訪れました。本学・ウプサラ大とのご縁で、彼をベタ褒めし副指導教員になって頂くことになった池上先生を交えた3人で、昼時に今後の彼の指導内容等について話し合う機会がありました。三つ揃いの彼は若年寄のいでたちで、お手製の大きなサンドウィッチを持参してきました。見た目にも美しく、ハラルでインドの香辛料を使った大変美味でした。相当手の込んだもので、学内で500円でも即完売すると確信しました。驚愕です。昔ながらの日本流儀に日本酒の手土産まで持参してきました。この手土産は私が断っても律儀に最後まで続きました。
いざ研究に取組み始めると、テーマ領域は広大ゆえに、テーマ、対象、手段、いずれも模索でした。持ち得る全ての文献を渡すとともに、少数文献に絞り内容報告するようにしました。結果的には、彼と私のテーマ内容に思い描くイメージが違っていたようでした。対象も地図上で見渡すと中東、東南アジア、中国、北米、ロシアとあり、彼は地理と技術のセットで2パターン選定しました。何故なのか、その正当化が重要だと話しました。手法についてはテーマや対象とは無関係に手法が使えないかと色々議論しました。「何をどうすれば?」という彼に「指示を待っても前進しない。何か試してみて。構えず難しいこと抜きに、自分がやり易い小さいことから」と「着眼大局着手小局」を勧めました。この自分のセリフは、自分自身が当時指導教員に指導頂いた内容と実は同じだった、と後で気づきました。こうして学生さんを相手にして四半世紀も経て理解する、自分の浅はかさを再認識しました。彼は最初戸惑っていました。けれども持ち前の博識を駆使し、彼から新聞のテキストマイニングで何か出来そうな気がすると、糸口を掴んだ報告をくれました。私自身の過去の経験で、1つ回り始めると、それが2となり3となって動き出すだろう。実際にそうなりました。
池上先生のご縁で、彼をM1とM2の2回、スウェーデンのウプサラ大に派遣しました。1回目は現地世界を知る試行的なもの。高物価のかの地では、持ち前の食材探しと料理の能力で、節約・自炊で乗り切ったとのこと。来日男子留学生も多くは自炊するらしいが、サバイバル能力では彼らに負けず劣らずの日本男児。老後も彼は自走可能だろう。頼もしい。M2の秋で再度ウプサラに行ってもらう時は、実は修論の未だ半分程度でした。ウプサラのMikaelとのメール交信を踏まえ、本人が「たぶん何とか出来そう」という言葉を信じ、私としては賭けでしたが「旅に」出しました。この賭けは、学生のポテンシャルを信じるという、成長を私にさせてくれました。そこから彼は自分の「手法」を開発、自信を持ちました。11月のエネルギー・資源学会論文申込(査読論文枠)も、持ち前の作文能力を発揮して、容易に執筆しました(2019年7月号掲載)。そうして要領を得て弾みが付き、難なく修論を仕上げました。彼が、すずかけ台・大岡山の2ヶ所で研究を進められたのは、正副両指導教員からバランス良く吸収する能力を持っていたからであろうと思います。これも彼の才能です。
詳細割愛せざるを得ませんが、就活は完全に2人3脚となりました。彼の希望は要約すると「(研究テーマに直結した)エネルギー・資源の確保という、資源開発・流通・小売・利用の業界で、(本学出身という)技術的な専門性を期待されるのではなく、彼の総合力を活かせる採用」でした。彼の特性からすると、彼に大事なのは「水が合う」会社、と助言。最終的には幸いなことに、その方針でトントン拍子に決まりました。社会に出ると、自分の考えに固執して突き進むだけでなく、理解者が別アングルで代替ソリューションを提供する、というコンサルタント役の重要性を理解しました。このことは、共同研究者との学際研究とも全く同一であることを再認識しました。
彼の才能は底知れません。ご実家の家業手伝いで培われた経理能力・姿勢は、最上級の信頼。普段のコミュニケーションも「首尾よくやっておきます、ご安心下さい」という彼の一言で安心して任せておける。けれども、そうした彼でさえも時折ポカする(中には深刻なものも)ので、「貴兄らしからぬ」という枕詞も生み出しました。時折、「たまには(同期の)萌ちゃんの『要領良さ』を見習うべし」、というほどの愚直さ。私の酒量に付き合うことが出来、博識会話が炸裂して周囲が虜になり、人気者になる。「水を得た魚」のように私のところで才能を開花できた彼が、そうした彼の才能を見抜いた上司によって、将来導かれることを願って止みません。
エジプト日本科学技術大学の博士課程交換留学生として、時松先生研究室に9ヶ月間入社しました。研究室に加わり、時松教授の監修のもと、研究を発展させるだけでなく、将来的に指導教官として成功する方法を個人的に学んだことは幸運だったと思います。
私の研究分野は、時松先生の研究対象とは直接関係のない都市の緑地と都市部の熱的快適性に関するものですが、彼は私の滞在中、そして交換期間が終了した後も、いくつかの可能なサポートを提供してくれました。方法。第一に、他の研究室とは異なり、時松先生は研究室での研究の焦点とは直接関係がないにもかかわらず、私の選択したトピックに取り組む自由を与えてくれました。さらに、時松先生は、私の研究の直接の分野の教授である彼の同僚を私たちの会議に招待し、より経験豊富なフィードバックを求めました。また、時松先生は、技術や設備のサポートの面で、かなりの資金で奨学金を超えた場合でも、必要なソフトウェアで私の研究を惜しみなくサポートしてくれました。全体として、トキムタス先生は、研究者が最も必要としている最善の方法で研究が行われるように、あらゆる種類のサポートと支援を提供すると思います。しかし同時に、時松先生は、あなたが自分のトピックに関する知識とスキルを習得できる独立した研究者になることを奨励し、適切な時期に学術的支援を提供します。言い換えれば、研究室の環境はあなたがあなたの将来の研究キャリアに利益をもたらす成功した独立した研究者になることを奨励するでしょう。
研究室では、社会環境と支援はそれほど重要ではありませんでした。ラボには世界のさまざまな地域からの学生がいて、活気に満ちた興味深い環境になっています。また、時松教授は、研究知識の交換だけでなく、特に日本に到着した最初の期間に、日本への定住の段階を促進するための社会的支援(留学生向け)を奨励しています。さらに、Covid-19のパンデミックの間、時松先生からの絶え間ない支援と、ラボメンバーの心身の健康に関する情報の毎週の交換があり、すべてのメンバーがラボメンバーに安心感と安心感を与える問題がないことを確認しました。そのようなストレスの多い時期に私たちが働くのを助けた精神的安定。時松先生研究室にいらっしゃることを心から嬉しく思います。ポスドク研究のために日本を訪れる機会があれば、いつでもまた研究室に参加したいと思っています。時松先生の親切で絶え間ないサポートと、研究室の仲間であるアミン・ナザラハリさんの非常に親切なメンターに感謝します。
エジプトからの留学生(E-JUSTプログラム)として、2019年9月から2020年7月までの10ヶ月以上、時松研究室に在籍しています。理学士と修士課程で形成された建築背景を持つ環境工学の博士課程の学生です。エジプトのタンタ大学で建築学の博士号を取得。博士号の研究では、エジプトのオフィスビルの高性能グレージングシステム(HPGS)の持続可能性を評価しています。時松教授は、建物のエネルギー、ライフサイクルアセスメント(LCA)、費用便益分析の分野で優れた経験を持っています。
時松研究室には、中国、タイ、韓国、マレーシア、インドネシア、イラン、サウジアラビア、エジプト、スウェーデン、そしてもちろん日本など、さまざまな国からの修士、博士、ポスドクの学生がいます。学際的な環境におけるこの文化的および科学的多様性は、私の経験を大いに高め、私の仕事を他の人と共有するのに役立ちました。すべてのラボメンバーはとても親切でフレンドリーです。日本での初日から、各留学生には、日本での生活で有名な時松研究室の同僚である家庭教師がいます。
時松教授は、定期的な会合や指導のための議論を通じて、学生たちが自由に研究できるように奨励しています。さらに、国内外の重要な会議に参加するための財政的支援。彼は、エネルギー、LCA、および費用便益の第1四半期のジャーナルに論文を発表した優れた経験があります。時松教授は、生徒の書いた作品を注意深く読み、各部分にコメントを付けて、修正を明確かつ簡単に行えるようにします。
時松教授は、あらゆる行政手続きにおいて非常に役立ちます。管理上の問題を解決するための彼のいつもの迅速な対応と優れたコミュニケーションに本当に感謝しています。キャンパスでの研究が中断されたため、彼は学生と連絡を取り合い、研究作業の進捗状況を追跡するための優れたオンラインシステムを確立しました。定期的なセミナーは、ZOOMアプリケーションでオンラインで開催されました。個人的には時松先生はとてもフレンドリーで、安心して仕事をしてくれました。彼は人生の恋人であり、通常はユニークなレストランで彼の学生のためのパーティーを開催していますが、それに参加するにはお金を払う必要があります!
時松研究室では、学生が協力して家具の整理や未使用物の処分を行っています。今後の開発により、時松研究室はより多くのオフィスに広くなり、見晴らしが良く、快適な家具、新しいインテリアデザイン、ソフトウェア、PCなどの研究施設、そして来るべき学生のための測定ツールを備えています。不利な点の1つは、ラボのメンバー間で組織的なスポーツ活動や日本のユニークな場所への旅行がないことです。
ときまつ教授は、研究室が東京の中心部から遠く離れていると考えているため、学生に毎日研究室への出席を強制することはありません。そのため、学生は東京の好きな場所にある宿泊施設を自由に選ぶことができます。また、ときまつ動物病院は、東京の中心部に近い大岡山キャンパスで、できれば時間を割いてくれます。
私は最近尊敬します、そして私は再び研究室に参加したいと思っています。時松教授と研究室の皆様のご多幸をお祈り申し上げます。
私にとって、この2。5年は私が予想していたよりもはるかに早く過ぎました。私は文部科学省の研究生として最初に入学し、6か月後に修士課程に入学しました。私の学士号は工学の分野ではなかったので、私は基準に追いつくのに非常に苦労しました。友達に1時間かかったタスクや課題は、私には1週間かかったかもしれません。必要な基本的な知識は、学士課程で教えられたからです。しかし、私には達成するという目標があり、そのために、私は自分の快適さを犠牲にして、自分の努力を最大化することをいとわなかった。
このパスでは、私のラボメンバーが最高のサポートでした。優れた研究室メンバーを持ち、友情を築くことの重要性は、常に最大の相互利益につながることを実感しました。困難な作業に耐え、特定のリスクを回避する方法を学び、要件を満たしながらどのようなクラスを受講するかについて、ラボメンバーの経験から多くの恩恵を受けました。
もちろん、時松先生の役割は私の成功にとって非常に重要でした。この成功の背後には、長時間、夜間および早朝の作業とディスカッションを伴う一連の多数の会議があります。私が今のところに至ったすべての助けに感謝しています。父親の姿からアドバイスを受けることはあなたの向上のためであると信じることが重要です。したがって、これらのアドバイスを受けることは、それが提供される方法に関係なく、あなたの長期的な利益のためである可能性が最も高いです。ですから、時松先生のご厚意とご厚意に感謝し、学問的にも社会的にも職業的にも育てていただきたいと思います。
副次的なプログラムとして、東京工業大学の専門分野を超えたクラスやワークショップを提供する東京工業大学リーダーシップアカデミー(ToTAL)に入学し、学力と個人の能力を社会と結びつけるためのスキルの向上を目指しています。週末の多くは早朝から夜、平日の深夜まで過ごしましたが、さまざまなバックグラウンドや性格の学生とコミュニケーションをとることができ、とても嬉しく思います。このプログラムの最初の登録者。きっと博士課程でも続けていきます。
他のプログラムと同じように、成功への道には多くの困難と困難があると私は信じています。特に、新しい学術環境を始めて慣れ、クラスに参加し、研究パスの決定を下し、論文や防衛を書くまでのすべての研究を行います。落ち込んだり、やる気がなくなったりする日がたくさんあります。単語が少ない非常に短いメールは、モチベーションを押しつぶしたり、モチベーションを即座に高めたりすることがあります。でも、卒業当日と学位取得後は、過ぎ去った前後の人の違いに気づき、努力する価値があったので、常にこの道を歩むことを忘れないでください。それ。
このラボに参加することは、私の人生における重要な経験の1つです。それは私の考え方、社会的相互作用、自信のレベルを変え、多くの改善がありました。私は2015年から修士号と博士号の両方で時松研究室に5年間滞在しました。2015年4月にインドネシアのバリ島から成田空港に日本に到着しました。その時、みんな(インドネシア人と日本人)がとても親切で、管理手続き(キャンパス、寮、市役所)の進め方、おいしい食べ物の見つけ方、そして日本の生活のすべてを教えてくれました。東京工業大学での最初の1年間は、とても楽になりました。ここでは、どんな場面でも助け合い、支え合うべき重要なポイントを学びます。
第二に、時松先生の監修のもと、この研究室のメンバーになれたのはとても幸運でした。私の研究についての指導、支援、助言を与えてくれ、取り残されないように常に私の進歩を気にかけてくれた彼に感謝したいと思います。時松先生は、この研究室で多くの開発の機会を与えてくれました。彼は常にラボメンバーに他の研究者と協力して私たちの研究の方向性を決定する自由と信頼を与えています。また、東京大学のアジズ先生と2番目のスーパーバイザーとしてコラボレーションする機会がありました。
研究に対する責任と強い意志を持つことは私たちにとって重要です。時松先生は私たちの目標達成をお手伝いします。彼はまた、私の研究中に多くの会議に出席し、私たちの分野の多くの研究者に会う機会を与えてくれました。この研究室で勉強している間、私はアジアやヨーロッパの多くの国に海外旅行しました。自分の研究を他の人とどのように伝えるかについての自信とスキルを高めることは重要な経験でした。
最後になりましたが、私の意見では、私たちのラボが長所または専門性を持っていることが重要です。それは私たちの研究の方向性に影響を与え、予算の割り当て(強力な統計分析ソフトウェアを備えたPC、エネルギーモデリングなど)を含む必要な資産の種類を含みます。また、他の研究者が私たちの専門知識を簡単に見つけてさらに協力できるようになります。この強いアイデンティティにより、このラボは優れた拡張と急速な発展を遂げることができると私は信じています。